| 年 月 |
事 柄 |
| 昭和24年10月13日 |
遊佐町は下吉出に農家の二男坊として生まれる。 |
| 昭和28年 |
一家で八幡に転居する。 |
昭和39年2月
(東京オリンピック) |
八幡中学校三年時、遠戚にあたる牛乳店を頼って単身上京。
神奈川県大和市立渋谷中学校に転校する。 |
| 昭和40年 |
日立技術養成校(横浜市戸塚区)に入るも、高校進学をのため、藤沢市の長後にある諏訪間新聞店に専従として働き、翌年藤嶺学園藤沢高等学校へ進学を果たした。同店には昭和43年の卒業までお世話になる。 |
| 昭和43年4月 |
大学進学資金を準備するため、羽根沢屋呉服店(藤沢市長後)に入社。同年12月、椎間板ヘルニアのため退社する。 |
| 昭和44年4月 |
亜細亜大学法学部入学。新聞奨学生として、杉並区阿佐ヶ谷の日経新聞専売所にお世話になる。 |
| 昭和46年6月 |
同大学中退。 |
| 昭和46年7月 |
政治家池田正之輔先生(旧八幡町芹田出身)に師事。秘書兼同氏が主宰する社団法人内外事情研究所の調査研究に従事し、外務省、防衛庁、内閣調査室を担当する。 |
| 昭和54年4月 |
山形県議会議員選挙に初挑戦(29歳・独身)するも次点で落選する。 |
| 昭和57年5月30日 |
32歳で妻敦子と結婚する。 |
| 昭和58年4月 |
再び立候補するも次点で落選。(33歳) |
| 昭和62年4月 |
三度目の挑戦で初当選(37歳)を果たした。(自民党公認) 以来、連続6期当選 |
| 平成 5年1月 |
山形県知事選挙で高橋和雄前知事を支援し、自民党を除名される。以来、政党に所属せず、議会活動をする。 |
| 平成 7年5月 |
新会派 『県政クラブ』 を結成。幹事長に就任。 |
| 平成13年9月 |
『県政クラブ』代表に就任。 |
| 平成15年4月 |
飽海郡区は定員一名になったが、5回目の当選を果たす。 |
| 平成15年4月 |
新会派 『山形21世紀の会』 の基本理念と基本条項を草案し、顧問に就任。 |
| 平成17年3月 |
『山形21世紀の会』 を離脱。 |
| 平成17年6月 |
『県政クラブ』 を再旗揚げする。 |
| 平成18年2月 |
新会派 『自由の会・県政・公明クラブ』 の結成に参加し、顧問に就任。 |
| 平成19年4月 |
飽海郡区は酒田市区と合区となったが6期目の当選を果たす。 |
| 平成19年4月 |
新会派 『県政・公明クラブ』 を結成に参加し、顧問に就任する。 |